「ちょっと舐めていました」――阪神・湯浅京己の告白 怪腕が向き合った難病、そして感覚と球質が一致しない“不安な日々”

復帰戦から間もなくして甲子園のマウンドにも立った湯浅。当然ながら虎党たちからは割れんばかりの声援を送られた。(C)産経新聞社
頭が真っ白になった復帰戦の胸中
阪神の湯浅京己は、カムバックを果たしたマウンドで投げられる喜びを体現するように腕を振った。
4月29日の中日戦の7回、出番はやってきた。
【動画】帰ってきた虎の怪腕 湯浅京己の復帰戦の投球をチェック
「なんも覚えてない。必死っていうか、緊張してた」
頭は真っ白となった。それでも、“後押し”はしっかりと感じていた。
「それ(声援)は聞こえてましたし、本当にありがたいなと」
その名がコールされると、敵地バンテリンドームに詰めかけた虎党は沸いた。1軍での公式戦は23年11月2日の日本シリーズ第5戦(甲子園)以来、実に544日ぶり。ドームに響き渡った「おかえり」の声援は、多くのファンが背番号65の帰りを待っていた証でもあった。
国指定の難病「胸椎黄色じん帯骨化症」からの復活を目指した湯浅は、昨年8月に手術を執行。長いリハビリに耐え、右足のしびれなどの症状と戦いながらここまでやってきた。
ただ、戻ってくることがゴールではない。1軍の舞台でもう一度、輝きを放って見せる――。「絶対点やらんと思って、投げました」というマウンドは、再起へのスタートだった。
先頭の木下拓哉にフォークを中前に運ばれて出塁を許すなど1死二塁のピンチを背負うも、湯浅は粘った。岡林勇希を三邪飛に仕留めると、かつての同僚である板山祐太郎をフォークで遊ゴロに打ち取った。3つ目のアウトを奪った瞬間、右拳を力強く握って、あふれ出る感情を表出させた。
胸椎黄色じん帯骨化症は、手術したからといって完治する病ではない。実は、つい1か月前も人知れず困難に直面していた。
「ちょっと舐めていました」
滑り出しそのものは順調だった。手術後から照準を定めていた2月の春季キャンプで全体練習合流を果たし、初日のブルペンでも平田勝男2軍監督をうならせるボールを投げ込んだ。2月22日に行われたKBOリーグのハンファと行った練習試合で実戦復帰。次なる目標として「開幕1軍」を見据えていた中で、3月に右足の脱力感やしびれなどの症状が出るようになった。
「3月に2、3回症状が出て……。一回出たら続くんですよね」
付き合っていくしかない病だけに、湯浅も最善の治療を模索した。「症状が出た時にいろいろ試してみよう」と温冷交代浴やサウナなど血流を良くする方法もトライ。だが、和らぐどころか症状はひどくなる一方。とりわけ春先の状態は本人が「3月が一番しんどかった」と漏らすほどだった。
「投げては『はぁ……またか』の繰り返しでした。(感覚的に)ずっと気持ち悪かった」
登板を重ねても、感覚と球質が一致しない。プロとして不安を拭えない日々は続いた。