「1人じゃなかった」――病とも戦ったトライアスロン佐藤優香が19年間の競技生活で得た財産
今後は指導者としてトライアスロンを支えていく覚悟だ(C)Getty Images
――五輪はやはり特別な大会でしたか。
特別でした。東京オリンピックが終わった2021年には燃え尽き症候群のような状態になりました。実際、東京オリンピックで引退しようと思っていたんです。ただ、周りから「パリまでできる」と声をかけてもらって、自分ではやり切ったと思っていたのに、どうしてそんなこと言うのだろうと、当時はその言葉が苦しくて、どうしようもない気持ちになっていました。
――気持ちを奮い立たせるのは大変だったのでは?
飯島(健二郎)監督にも「優香はまだできる。パリまで頑張ってみないか?」と言われたので、まず3か月の休養を取りました。そこからトレーニングを再開し、5月の横浜での世界大会に出場したんです。その時に周りの方々からの応援や温かい言葉が、自分の心にすごく沁みました。「また頑張ってよかった」と改めて思えました。皆さんの温かい気持ちに触れて、応援の力はすごいと改めて感じました。
――そうした中で、引退を決めた理由は?
リオ、東京、パリとオリンピックに挑戦させていただいて、やりきった自分がいました。パリオリンピックのシーズン後に改めて考えようという気持ちで過ごしていた時に、次のステージを指導者として挑戦していく気持ちが芽生えてきて、日本選手権で最後にしようと決めました。
――指導者を目指す気持ちが芽生えたキッカケは?
数年前の合宿の帰り道に、監督から「僕もずっと監督でいられるわけでもないし、次の後継者をどうしよう」という言葉をいただいたことがあったんです。その時は他人事のように聞いてたんですが、パリオリンピックのシーズンが終わって悩んでいた時に、監督の言葉を思い出して、自分が後継者になれたら、という気持ちが込み上げてきました。それで監督に「次は指導者としてチームを守っていけるように私が継ぎたいです」と宣言しました。
パリ五輪が終わってからは、3か月くらい悩んでいたんです。その時に母には「やりたいことが何もないなら、人の力になれるものを考えなさい」と言われました。やりたいことが一つも思い浮かばなかったので悶々としていましたが、指導者の道を考えて監督に伝えた時にはすっきりしました。
――サポートされる立場から、今度は指導者としてサポートする立場に変わっていきます。どういったイメージを持たれていますか。
自分が選手をやってきたからこそ伝えられることもあると思うし、選手の悩みを少しでも理解できるところがあると思うので、選手と近い距離で指導できるんじゃないかと思っています。監督は私に対して常にそういった形でサポートしてくださって、私が試合で結果が出ずに落ち込んだ時にも寄り添って「俺がちゃんとついてるから、怖がらずに次も一緒に戦っていこう」という言葉をいただいていました。私も後輩選手たちとそういった関係を築いていきたいと思っています。
――19年間の競技生活の中で得られた一番の財産は何ですか?
多くの方に支えていただいて19年間歩むことができたので、その「人の力」ですね。それがあったからこそ、トライアスロンに向き合えたという思いがあります。1人じゃなかった、そういう気持ちです。だから、今後は指導者という形ではありますが、トライアスロンに貢献していきたい。もっといろんな形で表に出て、トライアスロンを発信して盛り上げていける1人でもありたいと思っています。
[取材/構成:ココカラネクスト編集部]
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