「ノムさんの懐刀」が語る野村克也さんとの出会い
一度途切れた「縁」…そこから歩んだ二人三脚での道
そうこうして野村さんとのご縁が出来たわけですが、実は昭和49年に野村さんに見限られたんです。というのも、野村さんが監督に就任されてから選手としてかなり期待して頂いていました。ところが、自分としては当時まだ子供だったんでしょうね、プロ野球を高校野球の延長だと感じていました。やはりプロ野球選手は仕事ですから、高校出て3、4年の私にはプロ野球選手としての意識が低かったと思います。これがトレードに出された原因だと思います。ですから、私はそこで一旦野村監督との縁が切れているんですよね。
ところが、こちらとしてはトレードに出された身だったのですが、何かあるたびに野村監督から電話がかかってきたんですよ。当時サッチー(野村沙知代)が少年野球チームを運営していたので、「球場を借してほしい」だとか、「今流行の練習方法は無いのか?」とか。これが野村監督と一回離れた縁がまた戻った要因かなと思っています。
その後、野村監督がヤクルトへ来た時に、入院したんですよね。その時にサッチーが、関係者であっても一切通さなかった病室に、僕だけは通してくれました。そこから入院中も球団の窓口として病室へ行って打ち合わせもしたりしていました。春季キャンプ中には退院したばかりでもあり常に行動を共にして体調に気を使っていました。又野球関係の仕事へも同伴したりする関係になりました。
そこから、監督が色んな事を話してくれるようになりました。私も生意気に、現役時代何の役にも立てなかったくせに、ここはこれを投げた方が良いといった配球に関する提案などをどんどん出していけるような関係になったんです。
こうしてヤクルト、阪神、楽天と野村監督の下でやってきました。
何年も一緒にやってきましたが、阪神時代に3年連続最下位になった事はずっとトラウマで頭から離れなかったですね。楽天時代には、ずっと俺の下でヘッドコーチをやらないかと何度も言われていたんですが、阪神時代のことがあり考えさせてほしいと言い続けていました。野村監督が最後の年にようやくやらせてくださいと言ったんですが、結局ヘッドコーチではなく2軍監督になってしまいましたが。
ただ色々ありましたが、野村監督から学んだことは数えきれないほどあります。僕がこうして、この年になっても野球の仕事をしていられているのも野村監督のおかげといっても過言ではありません。本当に感謝しています。
続く。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
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