競輪選手志望からプロ野球個人トレーナーへ ~阪神・岩田稔の個人トレーナーが語る4~
阪神タイガース・岩田稔投手を支えるパーソナルトレーナーの網川翼さん。プロ野球選手のトレーナーになるまでの経緯、岩田選手と取り組んでいる技術論、好きな事を職業にする事についてや野球選手の引退後に関しては、前回までのコラムで語ってきて頂きましたが、今回は「トレーナーになった決意」について語っていただきました。
競輪選手への二度挫折を味わい、その経験からトレーナーになる決意ができた
僕も高卒ですし、そんなに賢いわけじゃないから、自分の実体験、自分が体験していない部分だったら、エビデンスに基づいた話しかしないようにしています。
身体をコントロールする時も、エビデンスに基づいてなければ治せない、変化しない部分もありますので。
僕の場合は25歳まで競輪の試験を受けていて、前の年には合格ラインのところまでは行っていたんですが、翌年にはモチベーションを維持できなくて、結局成績を出せず。燃え尽き症候群のようになってしまったんです。自転車を辞めるという決断はできたんですが「じゃあ、俺って何ができんねん・・・。」と思いました。
それまで自転車競技しか知らなかったですし。年齢制限があったんで、20歳で一回自転車競技を辞めたんです。その2年後に弟に勧めたら、一発合格だったんですが、僕のベストタイムからはだいぶ遅かったんです。「あ~やっておけば良かった」って思ったのですが、10歳から17歳までトライアスロンをやっていたこともあって、水泳の指導もしましたし、アルバイトも色々なことをやって、フリーターしながら「将来どんな仕事ならやっていけんねん?」と考えていました。
そこまでの段階で、自分に合ったトレーナーはいたんですが、「もうちょいこうしたら成績を出せたのにな」という部分はありました。その「もうちょっと」があったんですね。
「例えば、自分が試合に出るとき、もう何も考えないでも絶対いけるっていう身体に持っていける人になったらええやん。」と。
そこから、トライアスロンをやっていた先輩が整骨院をやるから手伝って、と言われ、勤めるようになりました。1年半くらい居て、そこから競輪業界で年齢制限が撤廃になって、もう一度、競輪にチャレンジしました。弟に面倒を見てもらいながら、プロの方にお世話になりながら。ところが、4年ブランクがあったんで、戻りきらないまま終わってしまった。
そこから前の段階で思い描いていたトレーナーという道に決めました。資格を取るとしたら鍼灸と決めていたので、フリーターで働いた後、鍼灸の学校に入学しました。
後悔はありましたが、トレーナーになりたいという気持ちが強かったのでモチベーションを維持できたのだと思います。
~つづく~
※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
網川 翼(あみかわ・つばさ)
つばさ鍼灸整骨院代表/ 岩田稔パーソナルトレーナー
幼少の頃より自転車競技やトライアスロンなどスポーツに親しみ、一時はプロ競輪選手の道を志すもアスリートを影で支えるコンディショニングに興味を持ち、トレーナーの世界に入る。
自身がスポーツ経験者であることで競技者の心理に寄り添ったコンディショニングが評判を呼び、2013年よりプロ野球選手・岩田稔選手(阪神)とパーソナルトレーナー契約を結ぶ。 家庭では4児の父。
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