遠藤保仁が日本サッカーに残したレガシー 独自の感性を持つ“ヤット”に期待される指導者像
遠藤には代表クラスのコーチとしても、自分が見ていた世界を指導していってほしい(C)Getty Images
“ヤット”こと、遠藤保仁が現役を引退した。
1998年、横浜フリューゲルスでプロ生活をスタートさせ、チーム消滅後は京都、2001年からはガンバ大阪、20年からジュビロ磐田でプレーし、J1通算672試合(最多)、103得点を挙げた。日本代表では歴代最多の152試合出場し、W杯は06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会を経験している。
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遠藤が優れた選手であることの証明は、Jリーグの通算試合出場や、3大会連続でのW杯出場にある。代表でいえば、ジーコ監督時のドイツW杯では出場機会はなかったが、それでも23名枠に入ったのは必要とされていることであり、つづくオシム監督、岡田武史監督の時代は主力としてプレーした。ザッケローニ監督の時は、ブラジルW杯の本大会こそサブの位置に入ったが、それまで主力としてチームを牽引した。どんな監督にも必要とされる選手が、良い選手のひとつの定義だが、遠藤はそこにピタリと当てはまる。それは、高い技術はもちろん、ピッチを見る目が秀逸だったからに他ならない。
ガンバ大阪で監督をしていた西野朗は、「ヤットには、たくさんの目がある」と言っていたが、それはただ単にピッチを俯瞰しているだけではない。あらゆる方向を見て、状況を判断して一瞬で パスの種類や長短を変えられる能力に長けているからの称賛の言葉だった。
よく、野球でも優秀な投手は投げる瞬間に球種や球速、高低を変えられるというが、まさにそれに近い能力を遠藤は持っていた。その能力を支えるのが、止めて蹴る、などの基本的な技術なのだが、同時に何事にも動じない鉄のメンタルも多くの目を働かせる能力に寄与している。ガンバ時代、車で練習場に行く際、いくらうしろから煽られてもスピードは制限速度を守って運転していた逸話があるが、マイペースがピッチのなかでも表現できる選手は遠藤ぐらいしかいないのではないか。
もともとうまかった遠藤のプレーに凄みが増したと感じたのは、オシム監督時代に代表でトップ下を始め、さまざまな要求をされて鍛え上げられてからだ。ボランチでは自分で時間を作って余裕のあるプレーをしていたが、トップ下など時間やスペースがない中でプレーすることで、攻撃の感覚がより洗練されていった。ガンバ時代、ACL優勝やクラブW杯に活躍した08年、天皇杯連覇に貢献した09年の遠藤のプレーは神掛かっていたが、オシム時代に得たものが身体に順化してプレーとして表現できるようになったからだろう。それは、中村憲剛が風間八宏監督に出会って、プレイヤーとしてさらに進化を遂げた姿と重なる。