キャラメルマキアートからブラックへ… 元MLB・岩村明憲
天国から地獄へ 一つのスライディングタックルで野球人生の歯車が狂う…。
人生において幾度となく立ちふさがる高い壁。アスリートにとって最大のそれは、長期離脱を伴う大きな故障だろう。ヤクルト、大リーグ・レイズなどで活躍した岩村明憲さんも、選手生命を左右しかねない大ケガを乗り越えて、活躍してきた選手の一人だ。
岩村明憲: プロに入って3年目にバッティングの師匠の中西太さんからいただいた言葉。何苦楚(なにくそ)。何事も苦しむことが礎(いしずえ)になるという。逆境に立っても、そこを何くそと思って乗り越えてきました。
何苦楚という言葉は、人生をそれだけで済ませるつもりはないけれど、どんな方でも似たようなシチュエーションは多いんじゃないかと思いますね。
ヤクルト時代の03年の右手首痛。そしてレイズ時代の09年の左膝前十字靱帯断裂。2度の大きな故障に見舞われた。
岩村明憲: まずはケガをしたら、お酒を飲まないようにはしていました。自分の体に対して、痛みに敏感になる必要があるので。2003年に手首をやって、2009年の膝の時もそうですが。初めて試合に出られるようになるまでは、酒断ちをしていましたね。
麻痺するわけですよ、体が。痛いはずなのに、それが麻痺して痛くなくなるから。結果的には復帰が遅くなってしまうわけです。お酒を飲みたい、飲みたくないわけではなく、まず何よりも1日でも早く現場に復帰したいわけですから。だからそこは我慢というよりも、当然の選択だったのかもしれませんね。
神経質すぎるかもしれないけど、それぐらい自分の体に対して正直にやらないといけない。そうやってケガをしているということ自体、体が悲鳴を上げているということですから。
ケガを機に、キャラメルマキアートからブラックへ
09年の左膝負傷は、リハビリの課程でも大きな問題をもたらした。体を動かすこともままならず、大幅なウエート増を呼んでしまったのだ。
岩村明憲: 10キロぐらいですかね。ランニングもできないですし。その後、楽天に入って日本球界に戻るわけですが。打てない時にはいろいろ言われるわけです。とりあえず体のことに気を付けようと。まずご飯のおかわりをやめました。
それとコーヒーをブラックにして。もともと甘党だったんですけどね。ミルクティーやカフェオレが大好きで。喫茶店ではキャラメルマキアート、エクストラキャラメルをプラス、みたいな。それを必ず頼んでいた人間が、今は微糖すら飲めない。コーヒーの味はブラックだ、と脳が思ってしまったんですよね。
せっかく苦労して1回落とした体重が、これを飲んだらまた戻るのかと思ったら怖くて飲めないです。もちろん甘いものだけが体重が増えた要因ではないと思うのですが、原因と思えるものは一つずつ排除して。そういうことを繰り返していって、ようやく自分の体と向き合えるようになりました。
ヤクルトでシーズン44本塁打を放ち、MLBでは弱小球団だったレイズをチーム初のワールドシリーズ出場へ導いた岩村明憲さん。しかし、その後に待ち受けていた苦難、挫折をどう乗り越えたのか…。
詳しくは、8月28日発売の「CoCoKARAnext Vol.2」に掲載されています。
※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。
岩村明憲(いわむら・あきのり)さん
1979年2月9日、愛媛県宇和島市出身。
1996年のドラフトでヤクルトスワローズから2位指名を受けて入団。
2000年にはレギュラーに定着、初のゴールデングラブ賞も受賞した。2001年には自身初のオールスターゲームにも出場。日本シリーズでは優秀選手賞に選ばれ、4年ぶりの日本一に大きく貢献した。
2006年には第一回WBCの日本代表に選出され、日本の第1回大会優勝に貢献した。
またシーズン終了後には、タンパベイ・デビルレイズへ移籍。
翌2008年には球団史上初のポストシーズン進出、地区優勝、リーグ優勝、ワールドシリーズ進出に貢献。
2009年には2大会連続でWBC日本代表に選出され、日本の大会2連覇に大きく貢献した。
2011年からは日本に復帰。楽天、ヤクルトでプレーしたあと、2015年から福島ホープスの選手兼任監督に就任。
2016年からは球団代表兼監督兼選手として活躍。