美女アスリートが夫に託した夢 二人三脚で東京五輪のメダルを目指す
体操、クレー射撃でアジア大会のメダリストも五輪の舞台と縁がなかった
新井由可さんは体操、クレー射撃と競技の性質が全く違う2種目の日本代表でアジア大会のメダルを獲得した異色のアスリート。現在はパーソナルトレーナーとして活動しながら、クレー射撃男子日本代表の夫・横内誠を支える。「体操、クレー射撃をやりましたが成功したという思いはないです。やっぱり五輪に出たかったですね。(現役時代は)タイミングが合わなかった。体操で全日本2位の時は五輪がない年で、射撃でも叶わなかった。その思いもあるので主人には東京五輪に出てほしいという思いは強いです」と目を輝かせた。
挑戦の人生だ。84年のロサンゼルス五輪で体操の美しさ、華やかさに魅了されて近所の体操クラブへ。成績が伸びずに悩んでいた小6に名門の「朝日生命体操クラブ」に入ると、1年後には全国7位に入賞した。「自分にセンスがあるなんて感じたことは一回もないです。最初は同級生の子供たちが5分間以上逆立ちしているのに私は1分も持たなかった。でも自分に場違いな環境でも周りのレベルが高いので力が引き上げられたと思います」。中1から高3までの6年間、体操に青春を捧げた。朝5時過ぎから練習、学校を終えると午後9時まで練習する。1年間の休みは元旦の1日だけ。「お母さん、疲れすぎて死んじゃうかも」と漏らすほどだった。努力は嘘をつかない。94年にドイツ・ドルトムントで開催された世界選手権。段違い平行棒で大逆手からの前方抱え込み2回宙返り降りを成功させ、「ARAI」と新技の名前がついた。高2で出場した全日本選手権では2位に。だが、この時期がピークだった。高3になると思い描いたイメージに体が動かない。「ケガとかではなかったんですが…。自分がうまくいかなくなると、周りの選手を気にしだすようになるんですよね。もう限界でした」と大学1年で体操の競技生活に別れを告げた。
体操の指導者に請われたが、アスリートとして競技を続けたい気持ちが上回った。体操のアジア大会で出場した際、「体操を辞めたらやってみれば?この種目は競技人生が長いよ」とクレー射撃の日本代表選手に声を掛けられたことでひらめいた。思い立ったら即行動。体操を辞めて数か月後にクレー射撃の選手へ転身した。「体操は『こういう動きでこうなる』とセオリーがあるけど、クレーは違うんですよね。表現が難しいけど繊細さというか、自分にしか見えない世界で感覚的な部分が大きい」と振り返る。ただ、自分に負荷をかけて見えない世界を見られる喜びに生きがいを感じる。技術をメキメキとつけ、釜山で開かれた02年のアジア大会では団体で銅メダルを獲得。31歳の13年に現役引退した。
夫の横内誠は少年時代から野球に打ち込んだ。強豪・上宮高で大学4年間までプレー。その後にサラリーマンを経て横内商店を起業。32歳のときに狩猟の目的で銃砲所持許可を取得した。最初は当たらず、試行錯誤して練習しているうちにクレー射撃の楽しさにはまった。昨年8月にカザフスタンで開催されたアジア選手権で銅メダルを獲得。由可さんは同じ競技の先輩としても献身的に支える。ストレッチなどのケアを全くしていなかったため腰痛があったが、「年を重ねてくると特にそういったケアで疲労の回復も違ってくるので必要なものを伝えました」とストレッチの方法を助言。横内は寝る前のケアが日課になった。
「主人は野球をやってきたので動体視力がいい。今年3月からは体調面に考慮してお酒もやめました。意志が強い人です。東京五輪に向けて夫を全力で支えます」。競技人生で到達できなかった舞台。今度こそ、生涯の伴侶と二人三脚で夢を叶える。
※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。
[文/構成:ココカラネクスト編集部 平尾類]
新井 由可(あらい・ゆか)
1977年3月21日、東京都生まれの41歳。
9歳で器械体操を始める。13歳の時に朝日生命体操クラブへ。すぐに全日本選手権大会で個人総合7位入賞を果たし、高2年時にインターハイで個人総合2位に。同年にドルトムント世界選手権に出場し、段違い平行棒の降り技で新技D難度の「ARAI」が誕生。技に自分の名前を持つのは日本女子体操史上3人目の快挙だった。18歳で異種目のクレー射撃へ転向。日本代表で活躍し、02年の釜山アジア大会では団体で銅メダルを獲得。現在は異色の経験を活かし、トップアスリートの人生を応援する「トップアスリート・コンシェルジュ」、パーソナルトレーナーやスポーツコメンテーターなど幅広く活動している。