五輪マラソン選考の黒歴史「高橋尚子落選」「自宅にカミソリ」「代表選考2勝で落選」「タイム最速が落選」etc.
日本において、五輪マラソンの注目度は高い。だが世界トップと渡り合っていた黄金期は過ぎ、04年に野口みずきのアテネ金メダル獲得以降、日本人は表彰台にすら届かないでいる。来年に迫った地元開催の五輪で、お家芸をなんとか復活させたい。「勝てる選手を選びたい」という主観要素の多い、これまでのあいまいな代表選考に終止符を打ち、打開策として生まれた試みが、今回のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)だった。
MGCは神宮発着の五輪とほぼ同じコースを使用し、ペースメーカーもいない。夏の暑さも含めて本番に近い条件下、プレッシャーのかかる一発選考という形で行われた。2位までに入った中村匠吾(26)、服部勇馬(25)、前田穂南(23)、鈴木亜由子(27)の男女2人ずつが五輪切符を獲得した。残り1枠ずつも、MGC3位か、今後の指定3大会で派遣設定タイムを切った選手となり、誰にもわかりやすい形で代表選手が決定される。
過去の選考方法は毎回といっていいほど議論を呼んできた。条件の違う4レースから3人を選ぶ方法、不明確な基準。遺恨を残した「疑惑選考」の歴史を振り返ってみた。
◆ソウル五輪(1988年)
事実上の一発選考となった大会に、実績のある瀬古利彦がケガで欠場した。瀬古は違う大会の優勝により五輪代表となったが、後からやり方を変えた日本陸上競技連盟(陸連)には批判が殺到。瀬古の自宅にはカミソリが郵送されてきたり、会社には「これから殴りにいくぞ」という電話がかかってきたという。瀬古は五輪で9位。「一発勝負」の選考方法が失敗し、アクシデントがあっても救済措置を適用できる、あいまい選考が続く元凶となった。
◆バルセロナ五輪(1992年)
残り1枠を争ったのは、世界陸上を2時間31分8秒で4位だった有森裕子か、大阪国際女子で2時間27分2秒の好記録で2位に入った松野明美か。松野が「私を選んで」と異例の会見まで開いたが、落選。代表入りを確信していただけに「国内選考会に出ていない有森さんとなぜ比較されるのか?」と激怒した。代表選考レースのうち2大会の最上位者が落選して物議を醸したが、有森が五輪で銀メダルを獲得。結果を出したことで、騒動は沈静化した。