「平成の大エース・斉藤雅樹」、時代を築いてきた野球論〜ドラ1からの転換期、そして挫折〜
−−ドラフト1位指名、しかもジャイアンツとなると大騒ぎですよね。
斉藤:あの頃、ドラフト会議は午前中からやっていました。僕はドラフト1位だったので、お昼過ぎには黒塗りの車がたくさん入ってきて、胴上げなんかをしたり、写真を撮ったりして、大騒ぎでしたね。
−−期待されてジャイアンツにドラフト1位で入団することにプレッシャーはありましたか?
斉藤:大学に行ったつもりで4年間やって、ダメだったら次の仕事を探すというような気持ちでやろうと思っていました。実際に入ってみても、自分は高卒で周りは大学や社会人から入ってきた人たちなので、どうしても体力的に劣っているわけです。「うわー、とんでもないところに入ってしまったな」と、最初は思いました。そう思っているうちに、その年の5月には投球フォームをオーバースローからサイドスローに変えることになりました。
−−それは当時の藤田元司監督に言われたのですか?
斉藤:そうですね。初めてのキャンプ明け3月、イースタンリーグで2試合投げたのですが、ボコボコに打たれてしまいました。そこで、「斎藤を野手にしよう」という声が上がって、一時期はピッチング練習をしながらもバッティング練習もするといったことをしていました。今で言う「二刀流」ですね。でも、僕はそれがすごく嫌でした。
「なんで俺だけがこんなことをしないといけないのか」と思って、不貞腐れていました。そうしたら、バッティングコーチに「やりたくないのか」って怒られて。「はい」と答えました(笑)。
たぶん、首脳陣も扱いに困ったと思うんですよ。一応、ドラ1ですし。それで、上層部にそういう相談がいったのかわからないですけど、藤田一軍監督が二軍の練習の視察に来られたんです。それで僕のピッチングを見ていて、「ちょっと腕を下げてごらん」とアドバイスをくれました。それから結局、サイドスローでやっていこうということになり、バッティング練習やイースタンリーグの試合も出場することなく、黙々と投球練習していましたね。
−−恩師のアドバイスが転機となり、何かを掴んだということですね。
斉藤:1年目の9月に、大宮でイースタンリーグの試合が予定されていました。大宮は埼玉で地元だから、僕が投げるという宣伝を打ってしまったそうなんです。だからそれまでに投げられるようにしろとうことで、その日を目標にやっていましたね。
結局その日は先発して、負けはしましたが、1失点に抑えることができました。その時に初めて、まともに投げられたという感覚が自分の中で生まれました。当時、イースタンリーグは10月くらいまであったので、結局1年目には2軍で4勝をあげることができました。
−−2軍での結果が飛躍に繋がった?
斉藤:一年目のシーズンが終わり、王監督に代わりました。その年のキャンプで一軍に帯同させてもらって、オープン戦でも結果を出すことができたんです。それでシーズン開幕戦、先発の江川卓さんの試合でピッチャーの3番手として出させてもらいました。なのに、僕が散々やらかしてしまって…。最後は頭部死球を当てて、呆れて交代させられました。
キャンプから調子が良くて、周りも自分も「イケる」と思っていただけに、自信喪失でしたね。その後も何試合か投げたはずなんでしょうけど、ゴールデンウィークが終わる頃にはファーム落ちを宣告されました。
そう振り返る、斎藤さん。プロとしての転機、ドン底を経験した若き未来のエースの、そこからのサクセスストーリーは次回配信予定。
※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]