大谷翔平が驚異の100号到達ペースで感じさせた可能性、歴代本塁打王を凌駕するスピード
もっともこれには理由もある。まずボンズだが、若いうちはスリムな体型でスピードをうりとした走攻守3拍子そろったタイプ。毎年、本塁打数よりも盗塁数の方が多かった。本塁打は20~30本前後で、その1・5倍近く走っていた。量産態勢を迎えたのはステロイド全盛となっていった晩年から。100号打つあたりではアーチストではなかった。
アーロンは42歳まで息の長い活躍をしたが、やはり若い頃は二塁打数が多く、俊足な中距離ヒッターだった。20年連続100安打以上を重ね、通算3771安打とコンタクトヒッターでもあり、デビュー当初は長距離砲というイメージはなかった。
ルースの若い時代は野球が違った。ボールなど道具も異なり、本塁打はなかなかでない時代だった。1918年、投打二刀流のルースが初めて本塁打王に輝いた際の本数はわずか11本だ。なによりデビューした1914年からしばらくはほぼ投手一本でプレーしていた。本格的に二刀流でプレーしたのは、前にあげた1918年と翌1919年の2シーズンだけ。そして、1919年にルースが29本塁打と3倍近く増やすと多くのファンの注目を集めた。すると機構は飛ばないボールを大幅に改良し、ホームラン時代が幕開けた。打者専念したルースは1920年に54本塁打すると、毎年50本前後のアーチを量産し続けた。
A・ロッドもデビュー直後は俊足のアベレージヒッターとして頭角を現わした。本塁打が増え始めたのは5年目の1998年から。この年42本塁打、46盗塁すると、翌年から盗塁数は減少傾向となり、2001年のレンジャーズ移籍後は本塁打アーチストへ完全に転身を遂げた。
歴代の本塁打王たちを見ると、意外にもデビュー当時はバリバリのスラッガーではなく、後にモデルチェンジしていった跡がうかがえる。大谷も現在は投打二刀流だけでなく、盗塁数が多く足でも攻めるタイプ。すぐにプレースタイルを変えることはないだろうが、年齢を重ねてより本塁打へシフトしていくことも考えられる。また、将来的に投打二刀流からどちらか一方へのシフトを迫られ、打者を選択する可能性もなくはない。さまざまな要素が絡み合い、ここからさらに本塁打量産のペースが加速してもおかしくはない。実際に100号達成翌日の試合で、すぐさま2試合連続となる8号を放った。まだ27歳であり通過点。行く先には無限の可能性が広がっている。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
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