【独占インタビュー:和田毅③】「気を使われるの嫌だから…」知られざる左腕の”本性“ 家族から贈られた引退記念「銅メダル」の秘話も
田中 あと、すごく覚えてるのが、毅の子供への姿勢。ここぞという時に怒ること。基本的には遠くから見ているけど、ここぞという時の”境界線“を感じてもらうように接してる姿は、パパの先輩としてめちゃくちゃ参考にした。そんな話をしてくれたの覚えてます?
和田 覚えてるよ。 嫁さんが言ってることを子供が聞かない時もあるし、反抗期じゃないけど、思春期とかもあるからね。でも、 これ以上言ったらパパは怒るからな、みたいな境界線は作っていた。
田中 遠征で家にほとんどいないから、いない時でもそれをどこかで感じさせるとか、思い出させることが大事だと。
和田 「あるラインを超えたら、ママからパパに報告来るからね」と子供には伝えていた。うちの父親がそうだったから。うちは男2人兄弟だったので、年齢が上がって生意気なことを母親に言ったりした時に、父親から「それ以上言ったら俺が怒るぞ」みたいなことを言われていた。だから、「これ以上言ったらダメなんだ」という自分の中での境界線があった。
田中 いなくても存在を感じさせるのが大事だと新聞のインタビューでも答えてたね。 でも引退して、久しぶりにというか、子供から見たら初めてパパが家にいるんじゃない?
和田 そうだね。今も忙しくさせてもらってるけど、これまで練習していた時間帯は家にいるから。
田中 (高橋)由伸さんは監督になる時や、監督の座を下りる時に一番娘が泣いたと言っていた。毅はどうだった?
和田 そんなに泣かなかったかな。自分は肩を痛めていたから、2019年ぐらいから毎年のように「辞めるかもしれない」と伝えていたのもあったと思う。それでDeNAが日本一になった夜に娘に伝えた。王会長に伝える前夜だね。どこかから漏れ伝わるのは嫌だったから、嫁さんとも直前で伝えようと相談していて、「今年パパやめるわ」と娘に伝えた。
田中 娘さんは来年も続けると思っていた?
和田 思っていたみたいで、「本当に本当の話?」みたいなことを聞かれた。毎年言ってたからね。だから「これは本当だよ」って。そうしたら「本当なんだぁ… 」「パパ、お疲れだったね。頑張ったね」って。
田中 現役を続けてほしいという言葉はなかった?
和田 まったくなくて「十分やったね」という言葉だった。ぐわーっと泣かれたら困るなと思ってたんだけど、やっぱり毎年言っていたから覚悟はしていたみたい。それが今年ついに来たんだと。悲しいというよりは、お疲れだったねという感じのホロッとした涙は流したけど。
田中 長い期間かけて準備ができていたのかもしれない。
和田 そうだね。
田中 毅がよく話していたのが、プロ野球選手の厳しさだったと思う。育成と支配下の違いだったり、長くプロ野球選手でいたからこそ、厳しさを知っている。
和田 あれを言った時は……うちは1軍から4軍まであるし、育成選手の数もすごく多い。だからどうしても、”なあなあ”じゃないけど流されることが多くなる。選手層が厚いから1年目は身体作りでいいや、とかね。育成は3年間は面倒見てくれるような雰囲気も少なからずゼロではないし。実際は決して3年の猶予があるわけではないんだけど、そういう甘えが生まれてしまう。だから、支配下になるためにがむしゃらにやろうよ、と。まだまだ君たちは支配下になってないわけだから、自分の中ではプロ野球選手ではない、と言ったんだよね。
田中 なるほど。
和田 背番号は3ケタだし、1軍の試合には出れないんだよ、と。当然、身体作りは大事なんだけど、その中でもやっぱり一日でも早く支配下に上がりたいという気持ちを持つのと持たないのでは全然変わってくる。危機感ではないけど、そういう気持ちでやってほしいというのを一番伝えたかった。
田中 早稲田大の時から甘さを排除する意思が強いように見えていたけど、その甘さとの向き合い方はどうやって培ってきた?
和田 人間はどうしても楽な方に行きがちになってしまう。 自分の場合は自ら引退を選べたけど、基本的にほとんどの人がクビを宣告されて辞めていく。実際にクビと言われた時に「ええ、なんで?」みたいに、初めて危機感を覚える人がいるかもしれない。そう思うくらいなら、時間がある中で1日も悔いなく日々を過ごしてほしい。だから自分は1日1日を大切に悔いなく22年間やってきたつもりだし、そういうふうに若い選手たちにも過ごしてほしい。 宣告されてからじゃ遅いから。