転職や新たな道へ踏み出す勇気 やり続ける、やり遂げる

2017.10.05

高校野球顧問として甲子園出場 → 日本初のプロトライアスリート

飯島健二郎さん

 リオ五輪のトライアスロン日本代表監督を務めた飯島健二郎さん。1987年には高校教師の肩書を捨て、日本初のプロトライアスリートとして現在のトライアスロン人気へと導いたパイオニアだ。安定した職業から一歩踏み出し、大仕事を成し遂げた飯島さんは自身の経験から「挑戦を恐れるな」と笑顔で語ってくれた。

 水泳、自転車ロードレース、長距離走の3種目を連続して行う競技・トライアスロン。しかし、飯島さんはそもそも陸上や水泳の選手だったわけではない。この夏も西東京大会でベスト4入りした高校野球の名門・日大二高でピッチャーを務めていたのだ。

安定した教員職を投げ捨て、未開の地へ。

 日本大学文理学部卒業後は母校に体育教師として赴任。82年夏には顧問として甲子園出場に貢献し、2回戦ではエース・水野雄仁を擁する池田に惜敗したこともあった。

 そんな中、指導中にアクシデントが襲う。膝の半月板損傷という大けがを負ったのだ。まさかの長期入院。みるみるうちに足が細くなっていくのが分かった。

 失意の時間は、自身とゆっくり向き合う貴重なひとときでもあった。限界に挑戦したい。その時、たまたまトライアスロンをテレビで見た。過酷な光景が自身を奮い立たせた。これだ。足を元に戻そうと、リハビリで始めたトライアスロンだったが、のめり込んだ。86年、教員を辞め、トライアスリートへの転身を決断した。心の決め方は、どのようなものだったのか。

 「勢いだけですよ(笑)。自分の中で『これだ!』って思ったんですよね。自分が求めていたものだと。この感覚はデカかった。今しかできないことをやりたい。反省はしても、後悔はしたくないということで決めました」

 当時は結婚したばかり。教員という安定した職業を捨て、まだ競技者もわずかなトライアスロン選手への転身については、身内から反対意見もあったという。

第一歩を踏み出す勇気 真剣に、誠実に突き進めば、必ず味方になってくれる人は現れる

 「遺跡を探しているのと同じかもしれない。ゼロから作る面白さはありましたよね。何もないところから生み出していく。水がないところをひたすら掘っていって、水がちょろちょろでも出たら『水が出た!』って(笑)」

飯島健二郎さん

 不安はなかったのだろうか。

 「不安だらけですよ。昔も今も。ただ不安の中でとりあえず出口を見つけて、抜け出したときに本当の意味での自信がつくと思うんです」

 プロ・トライアスリート第1号になった飯島さんの背中を押してくれた存在の一人には、あの長嶋茂雄さんもいた。85年には日本トライアスロン連盟会長へと就任し、競技の普及に尽力してくれた。「いつか五輪競技に」と国内外の関係者に採用をアピールしたことも語りぐさだ。長嶋さんは「日本トライアスロンの父」とも称される。まだトライアスロンの認知度が低い中で、ミスターの功績は大きかった。

 真剣に、誠実に突き進めば、必ず味方になってくれる人は出てくる。大事なのはまず第一歩、踏み出す勇気。そしてやり続ける、やり抜く力だと、飯島さんの生き方は教えてくれる。

 ※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。

〔文/構成:ココカラネクスト編集部 〕

飯島 健二郎(いいじま・けんじろう)

1959年、東京都生まれ。日大二高、日大では野球部で投手として活躍。大学卒業後、母校の日大二高にて野球部顧問として甲子園出場。水泳部顧問としてもインターハイ出場。
野球部の生徒と練習中にヒザの半月板を損傷し入院。入院先でたまたまテレビで観たトライアスロンに惹かれ、教員と言う安定した職業を捨て、日本初のプロトライアスリートに。チームケンズを創設。現役時代は数々のタイトルを獲得、日本のトライアスロンのパイオニア的存在。
引退後は指導者として、北京五輪5位入賞の井出樹里選手、2010年の第一回ユース五輪で金メダルを獲得した佐藤優香選手等を輩出。トライアスロンが五輪正式競技となったシドニー五輪以来、代表監督やコーチ等を歴任。

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