「今も支えになっている」母国で経営者になったトニ・ブランコ 中日時代の記憶と”日本で学んだこと”【前編】
ブランコは懐かしそうにNPB時代を振り返った(C)産経新聞社
2009年より、中日の主砲として活躍、豪快なバッティングでファンを魅了したトニ・ブランコ。来日1年目より持ち前の長打力を発揮し、打撃タイトル2冠に輝いた。
現在は母国、ドミニカ共和国で物流関係の事業を手掛けているというブランコに、日本球界在籍時の思い出などを語ってもらった。
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2009年シーズン、中日に加入したブランコは開幕戦から4番を任されるという大役を担う。そして、初打席で初本塁打を記録し、この上ない結果で落合博満監督(当時)をはじめとする首脳陣の期待に応えた。
「来日当初から、コーチ陣の期待を強く感じていました。『主軸はブランコしかいない』という言葉もかけてもらったり、チーム全体からも信頼を感じていましたし、自分でも外国人選手の役割を認識していました。初めて目の当たりにする日本の野球を理解しながら、何としてでも結果を残したいという想いを持って、毎日プレーしていました」
中日入団時では、「野球より先に、日本の食べ物に慣れることを心掛けました」と笑顔で振り返るブランコ。1年目からシーズンフル出場を成し遂げ、39本塁打、110打点で両部門のタイトルにも輝いた。だが、本人は終盤まで個人記録には特に関心が無かったという。
「シーズン中、実は自分がホームランダービー上位にいたことは知らなかったんです。32本目を記録した直後に、ホームラン王争いを演じていた巨人のラミレスが僕に教えてくれて気づきました。そこからは真剣にタイトルを視野に入れましたが、最後までプレッシャーを感じることもありませんでした。とにかく毎試合全力で、楽しみながらのプレーを意識していたんです」