ポスティング不成立にめげず、翌オフに海を渡った日本人選手たち
もっとも、一度のポスティングシステム不成立にめげず、翌オフに海を渡った日本人選手も過去には多い。
近鉄・大塚晶則は、2002年12月にポスティングを申請。当時は入札式で現在とはシステムが異なるが、史上初の入札球団なしに終わった。
メジャーへの夢を諦めきれない大塚は、近鉄に自由契約を申し出た。もっとも、球団もおいそれと認めるわけにはいかない。ショックを引きずる大塚は残留要請を拒否し、キャンプにも参加せず、オープン戦序盤も登板しなかった。
そこで救いの手をさしのべたのが元近鉄監督で、当時の中日・佐々木恭介ヘッドコーチ。大塚の希望を汲み、1年後に再びポスティングにかける約束の下、近鉄との金銭トレードがまとまった。大塚は途中退団したギャラードに代わる抑えも務め、51試合で1勝3敗17セーブ、防御率2・09と活躍。オフにポスティングシステムを申請し、30万ドルで落札したパドレスへ移籍した。
その後のメジャーでの活躍は周知の通り。パドレスでは守護神のトレバー・ホフマンへつなぐセットアッパーとして、1年目は73試合に投げて7勝2敗2セーブ、リーグトップの34ホールドで防御率1・75。2年目も66試合に投げた。2006年はレンジャーズへトレード移籍し、抑えを任され、63試合で2勝4敗32セーブ7ホールド、防御率2・11と大活躍。この年は第1回WBCで日本代表の守護神も任され、胴上げ投手となった。
2005年オフの日本ハム・入来祐作、2010年オフの楽天・岩隈久志、2011年オフの西武・中島裕之も、一度はポスティング移籍が不成立となりながら、その後に米球界へと渡った。
西川は順当にいけば、今季中に海外フリーエージェント(FA)権を取得することができる。コロナ禍が下火となり、交渉期限も気にすることなく、夢舞台への移籍テーブルに着くことはできる環境が1年後には訪れる。今後どういった判断を下すのか、西川の発言に注目が集まる。
※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
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