子どもの幸せを願うなら教えるべき「母の教え」 とは
人生の呪縛
自由そうに聞こえる「好きなことで食べていけ」という母の教えが私の人生を縛りました。次第にそれが何かする時の条件となっていったからです。何をするにも「これは好きなことをして食べていく人生につながるだろうか」というチェックが入るようになりました。
だからすぐに可能性を感じないものは遠ざけてきました。次第に意味を感じることだけを精査して生活するようになりました。そのような生活は遊びがなく窮屈だと感じていました。でもその時はなぜそのようなことになるのかわからなかったので、どうすることもできませんでした。
意味や意義の有無を考えるにつれて、私はだんだんと感覚を閉ざすようにもなりました。「これをやってみたい」「楽しい」そういう感覚がなくなっていったのです。タスクをこなすような毎日に感じたこともあります。
でも、自分が幸せに生きよう、満たされて生きよう、自分らしくいようと思った時に、自分の感覚を感じられることは非常に重要です。自分がこれが好きだとか、これをすると満たされるとか、そういう感覚がわからなければ、自分が満たされて幸せになる環境を自分に用意することが難しいからです。
呪縛が生まれるメカニズム
母の教えが私を縛ったのはなぜでしょうか。それは私の中に自己否定感があったからです。自分は価値のない存在だ、自分がいることは周りにとってマイナスだ、という感覚です。私は自分には価値がないと感じていたので、自分の価値をなんらかの形で証明する必要がありました。それは母が認めてくれる姿になることでした。
多くの子どもに当てはまることですが自己否定が強いと「ちゃんと勉強しなさい」と言われれば、ちゃんと勉強する成績のいい子になろうとするだろうし、「人に優しくしなさい」と言われれば人に優しくできる心優しい人になろうとすることでしょう。
私の場合は「好きなことで食べていけ」という母の教えを体現することで母に認められ、自分の価値を感じようとしました。そして、それに縛られてしまったのです。子どもの中に自己否定感があれば、何を言っても人生を縛るものになる可能性があります。
それは褒め言葉でも同じことです。例えば、私は家事を手伝うようによく言われていました。本当に嫌で、食後の洗い物なんて嫌すぎて吐き気がしていたものですが(笑)ある時から料理がしてみたくなって、ご飯を作るようになりました。それから晩ごはんは私が作ることが増えました。
母は当然、感謝してくれるし、褒めてくれます。最初は気が向いたからやっただけなのですが、私は褒められるため、認められるため、自分の持っている自己否定感を打ち消すためにごはんを作り続けました。そうやって、気がつけば褒め言葉が私を縛りました。