大橋秀行はなぜ「150年に一人の逸材」と呼ばれたのか?本人が振り返る現役時代の苦労と栄光【名チャンピオン秘話】
ヨネクラジムの教えが、井上尚弥にも受け継がれていることだろう。(C)Getty Images
私が現役だった35年くらい前は、練習中に水を飲めなかった。うがいもしてはいけない世界だったから本当に大変でしたよ。水を飲みながらの方が汗が出るので体重が落ちるんですが、水分を取らないで練習するとオーバーヒート状態になるんです。汗もかけないで動いているから、熱が逃げていかない。試合直前にもなると38度5分ぐらいに体温が上がってしまってね。体温が高いと、「大橋、減量苦!」と新聞に書かれるし、それを見ると嫌になってしまうので、いつも脇を濡れタオルで冷やしてから体温を測って「36度です」と言っていました(笑)。
それに当時は計量が終わってから、血の滴るようなステーキなどを食べるのが主流だったんです。でも、気持ちが悪くて食べられない。胃が受け付けないんです。その頃から、アメリカあたりだとスパゲッティだったり、炭水化物を摂っていたので、それで私も「スパゲッティとかにしてください」と米倉会長に頼んだんですが、「そんなもので力が出るわけはねえだろ」と言われてね(笑)。それでも試合に勝って無理やりお願いしたら、会長も聞いてくれました。ヨネクラジムの伝統がそこで変わり、毎回おかゆとか雑炊になりました。30年以上も前ですから、最先端ですよね。私はサプリメントもアメリカから輸入して使っていたし、いろいろと自分で試行錯誤していましたね。
ヨネクラ会長に車の隣に乗せられて、交渉の席にも一緒に行っていました。選手としては珍しかったと思います。だから裏のことも全部知っていました。お金の動きだったり、マスコミの人や後援会の対応の仕方だったり。米倉会長は、私の将来を予見していたのかもしれません。いろいろなところに連れていってくれたので、全てをこの目で見られたし、大事な考え方に気づけました。米倉会長は、後援会の方たちに「応援させてやる」という態度ではなく、どんな人にも「ありがとうございます」と頭を下げていた。もし私が「応援させてやる」という姿勢が正解だと勘違いしていたら、今の大橋ジムはなかったと思います。
ヨネクラジムは難しいことをやっていたわけではなく、当たり前のことを当たり前に、シンプルに続けていました。結局、継続が大事。諦めないことが一番なんです。米倉会長からは「一生のうちに大きな波が3回くるから、それに乗り遅れるな」「ダメなやつは波が来てもチャンスを逃してしまう。一番ダメなやつは、波が来てるのに気付かない。人生は常に準備しておくことが大事」と常々言われていました。やっぱり、そういうことですよね。今でも私は、その教えを大切にしています。こうした話は八重樫(東)だったり、(井上)尚弥にもしますが、みんな理解していると思います。
大橋ジムは世界チャンピオンが3人も生まれているし、パウンド・フォー・パウンドの100年近い歴史のなかで、日本人として初めて1位が生まれた。これはやっぱり、ヨネクラジムの真似をしてきたからだと実感しています。それだけ米倉会長はすごかった。そのいいところを継承して改善してきたから、これは必然の結果なんだろうなと感じています。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
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