大橋秀行はなぜ「150年に一人の逸材」と呼ばれたのか?本人が振り返る現役時代の苦労と栄光【名チャンピオン秘話】
大橋会長が自身の現役時代について語ってくれた。(C)CoCoKARAnext
WBAスーパー&WBC&IBF統一世界バンタム級王者の座に鎮座し、日本人初となる『THE RING』誌のパウンド・フォー・パウンド1位にも輝いた井上尚弥。この”モンスター”の鮮烈な活躍もあり、いま日本のボクシング界は世界から注目を浴びている。ただ、過去にも偉大な日本人世界チャンピオンは、数多く存在した。今回はそうした歴代王者のなかから、”井上尚哉を育てた”大橋ボクシングジムの大橋秀行会長をピックアップ。1990年代にWBC&WBA世界ミニマム級チャンピオンに輝いた同会長に、当時を振り返ってもらった。
【関連記事】井上尚弥の肉体を「進化」させた食事・栄養改革。プロテインを使うようになった理由とその使い分けは?
私のプロデビューは1985年でした。ヨネクラジムの米倉健司会長に「150年に一人の逸材」というキャッチフレーズをもらいましてね。具志堅用高(元WBA世界ライトフライ級王者)さんが「100年に一人」と言われていたから、「お前は150年に一人だ」と、ノリでつけてくれたんです。ただ、自分ではそうは思っていませんでした。私はキャリアで5敗もしましたからね。「150年に一人の逸材」が、そんなに負けるわけがありません(笑)。
でも、毎日言われると「あれ、もしかしてそうなのかな」と勘違いするところは、少しありました。言葉の魔法じゃないけど、何度も何度も言われると自分もその気になってくるんです。会長は、毎朝毎朝ロードワークに1日も休まず来てくれましたし、そういった積み重ねの大切さも教えてもらいました。
自分で分析するのは難しいですが、当時の私は”異質なボクサー”だったかもしれません。軽量級なのに足を使わないし、手数も少ないし、カウンターを狙っている場面も多い。世界チャンピオンになるために、いろいろと考えて、あのスタイルに行き着きました。
私がチャンピオンになった1990年当時は、日本ボクシング界は冬の時代。日本人選手の世界挑戦が21人連続で失敗していて、私が22人目だったんです。だから、「日本ボクシング界最後の切り札」なんて期待されましてね。自分としては「こんなチャンスはない」と思っていましたし、実際に崔漸煥(チェ・ジョムファン)にKO勝ちして、世界挑戦の連続失敗記録を止めることができました。日本ボクシング界としては、1年3か月ぶりの世界王者誕生でしたから、試合後のインタビューで「自分が勝ったことよりも連続失敗記録にストップを掛けられたことが嬉しい」と言ったくらいです。
ただ、一番印象に残っている試合は、引退直前の最後にチャナ・ポーパオインに負けた試合ですね。減量がきつくて、ちょっと意識がないような状態でした。試合内容も、あまり覚えていません。私の性格かもしれませんが、勝った試合より、負けた試合の方が印象に残っているんです。後楽園ホールで金奉準(キム・ボンジュン)に負け、韓国と日本で張正九(チャン・ジョングン)に2回負け、さらにリカルド・ロペスにも負けた。今でもすっと言えるぐらいです。
減量は、正直きつかったですね。中学の頃から1日1食。世界一を目指すなら軽量級が一番有利だと思ったし、うちの家族はみんな太っているから自分も太る体質だとわかっていました。中学3年から、ボクシングを辞める28歳まで、ずっと1日1食。皆さんから「1日1食はスゴイ」とよく言われますが、慣れるとその方が楽になって、逆に食べるほうがつらかったくらいです。
ただ、私はあまり減量が苦しい素振りを見せていなかったので、みんな「減量は楽なんだろう?」と勘違いしていたようです。当時は当日計量だし、1日1食で絞っている状態からの減量だから、本当にきつかった。サウナスーツを着て練習していても10グラムも落ちないこともありました。