「野村監督の右腕」が語る万年二軍にいる選手の課題
意識の甘さが故のトレード…練習に反発
プロ野球界で「ノムさんの懐刀」、「野村監督の右腕」、「名参謀」と呼ばれ、ヤクルト、阪神、楽天で野村監督の下でヘッドコーチや二軍監督を務めて来た松井優典さん。一昨年までは、ヤクルトでファームディレクター、編成部長などを務めて来て、山田哲人等を始めとして数多くの選手を発掘、育成、輩出して来た。
7月下旬に神奈川県内にて行われた講演にて、改めてその野球人生や野村克也とのエピソードを聞かせてもらった。前回は自身の身におきたトレードについて語ってもらったが、今回は万年二軍にいる選手とその課題、取り組むべき事について。
僕は1968年、ドラフト3位指名で南海ホークスに入団しました。その当時はコーチ兼選手で野村克也さんがいました。私の2年目の1969年から監督になられました。私は選手としてかなり野村監督に期待されていました。
ところが、その時の私はまだ子供だったんでしょうね。プロ野球を高校野球の延長だと感じていました。やはりプロ野球選手は仕事ですから、高校出て3,4年の僕にはプロ野球選手としての意識が低かったと思います。私はおそらくこれが原因でヤクルトスワローズにトレードに出されました。
ヤクルトへ行ってからは、何とか結果を出さないといけない毎日でした。僕はそこで期待されながら5年間現役としてプレーしましたが、はっきり言って一切実績は残っていません。ずっと2軍ばっかりでした。ですが、今思うとずっと2軍だった原因というのは自分にありましたね。
当時のヤクルトは荒川監督でした。その当時、春季キャンプでの若手の練習は、まず朝7時に集合し、グラウンド10周。そこから全体練習を行いました。僕はどうもその練習のやり方についていけなかった。
「何でこんなに練習しないといけないんだ。」
「こんなことをしてもただ疲れるだけだ」
と、反発していました。
すると荒川監督に、「松井はそんな態度をとるんだったら、明日から練習に参加しなくていい」と言われました。私はそれ以上言い返せなかったので「はい、わかりました」といってその場を離れたんです。
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