ADHDと発達障害とギフテッドと、あるべき社会の方向性
程度の差こそが重要
つまり、発達障害か定型発達かを分ける境目というものは、なにもスイッチのようにとある要素がONかOFFかでどちらかにきちっと分かれるものではありません。
程度の大小が、かなり大きくあるのです。
ところがそれを見るのは、結果の行動からしかありません。他人の頭の中までは見えませんので。
したがって、本来は程度の差は「いきなり叫びたくなるかどうか」で判断すべきですが、実際には「いきなり叫んだか叫んでないか」で分類してしまうのです。
ここに、症例からのみ見ることの問題が1つあります。
発達障害やADHDにもいろいろある
発達障害の中が色々分かれるように、ADHDの中もいろいろに分かれます。
これを個人の推測ではありますが考えてみた時に、例えば「落ち着きが無い」といった要素1つにしても「落ち着き無く動きたい欲求が強い」のか「落ち着き無く動きたい欲求を抑える部分が弱い」のか、実は全く別個の要素2つが絡んでいる可能性があります。
結果として見える行動が「落ち着き無く動く」であった場合、「落ち着きの無さ」という1つのパラメータに数値を入れて分類しがちですが、実際には少なくとも「落ち着きたくない欲求の強さ」と「落ち着いて動きたい抑制」と、2つのパラメータに数値を入れて、その結果として「落ち着いて動くか否か」というものが決定されるのです。
ですから、例えば「突然駆け出したり踊り出したりしたいほど欲求が強くはない」ものの、「落ち着いて動かずにいる抑制が弱い」場合、貧乏ゆすりを始めます。
逆に「突然駆け出したり踊りだしたりしたいほど欲求が強い」ものの、「落ち着いて動かずにいる抑制が極めて強い」場合、動きません。
これら2者を比べると、前者のほうが多動のパラメータが高いと思われがちですが、実際には逆なのです。
ギフテッドという存在と呼称
「ギフテッド」これほど誤解されて都合よく使いまわされている単語もそうそう無いでしょう。
言うなれば「天才」と同義に語られていたり、あるいは発達障害の子を持つ親の一縷の希望として言われていたりします。
しかしこれに関して最も素晴らしく著した日本語の文献は、wikipediaの「ギフテッド」の項目でしょう。アメリカの学術的な文章を誰かが訳したのでしょうか?他で見られるようなギフテッドの解釈とは明らかに毛色が違い、そこに共感を覚える人には涙なくして読めないほどです。
このwikipediaの「ギフテッド」には、ただ天才とか恵まれているとかでは語りつくせないギフテッドの悲しさが十分に詰まっているように感じます。
発達障害に様々な種類が存在するように、ギフテッドにも様々な種類が存在します。
ギフテッドはその総称に過ぎず、言い換えてしまえば「上手くやれる発達障害」がギフテッドに分類されるだけであり、ギフテッドも発達障害も根は同じ・・・というのが持論ですが、これはまた後にあらためて説明します。