卵をぶつけられた日。『何とかなる』なんて嘘、生活もラクロスも苦悩の連続
日本人初のプロラクロス選手 山田幸代さん。
大学1年の時にラクロスを始め、卒業後は社会人選手としてプレー。その後、プロ宣言し、オーストラリアのチームと契約するなど、10年以上にわたり、日本ラクロス界をけん引している。
何とかならない現実を目の当たりに。文化、生活スタイル、そしてラクロス
「プラス思考で、何事も経験。前例がなければ作れば良いし、道なき道を進むのも苦ではない。『もう無理、帰りたい』と思ったこともあるけど、お金がなくて帰れなかっただけ(笑)。
言葉が通じなくても何となるって思っていたんです。でも、言葉という『伝えるツール』が十分に使えないと、何ともならかなかった。
生活でも大変なことはあって、例えば、ホームステイ先で、少しでも家のことを手伝おうと思って、庭の花に水を撒いていたら、警察が来て捕まえられそうになったんです。水不足なので、水を撒ける曜日が決まっていたらしく…その国の文化を知ることは、とても大切なんだと。
ラクロスでも、最初はパスももらえなかった。2年ぐらいして、ようやく、プレーを少しずつ認めてもらえるようになって、MOM(マンオブザマッチ)をいただいたり、南オーストラリア州代表候補に選出されたりするようになりました。
でも、その次には、『言葉も通じないくせに』って言われたり、卵を投げつけられたり、ミーティングを私だけ知らなくて参加できなかったり…。本当にいろいろありました。
でも、これらを乗り越えないと、信頼は勝ち取れなかった。今はそう思いますね。
それに、決して一人ではなくて、いつも誰かに助けてもらっていました。オーストラリアで出会った日本の人たちに協力してもらったり、チームメイトが声をかけてくれたり。『うちに来なよ』って、誘ってくれて一緒に生活しました。彼女は私にいつも、『ベストフレンド』持って来てって。これは電子辞書で(笑)、辞書を使ってコミュニケーション取っていましたね。」